カジノ 和歌山 二階

カジノ 和歌山 二階

1872年のケーニヒスプラッツ 戦勝記念塔と参謀本部(右側の建物) 新しい参謀本部の「モルトケ邸」は本部本館の南東翼にありました

正式な入り口はケーニヒス・プラッツに面しており、家族や親しい訪問客は参謀本部を通らずとも出入りすることが出来ます(もちろん参謀本部とは内部でつながっていました)

 ヴィルヘルム1世皇帝はモルトケへの報償として、この邸宅の装飾品や家具のため12,000ターレルを「ポケットマネー」で賜わり、元より「世界一の参謀総長」のため金に糸目をつけてはならぬと軍も奔走したため、その内装・調度は大変豪華なものとなりました

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 この参謀本部内「モルトケのプライベート区画」には複数の宿泊可能なスイートルーム、宴会場、会議室、書斎、喫茶室、音楽室、喫煙室、プライベートなダイニング、ベッドルーム、家族の居室、そして下僕や副官のための部屋や施設がありました

 書斎やプライベートな部屋には広いバルコニーが設えられ、ここからは眼下のケーニヒス・プラッツや帝国議会に戦勝記念塔はもちろん、シュプレー川やティーアガルテンを見渡すことができました

 調度で目立つのは喫煙室の家具類で、トルコ時代の苦労を忍んでオスマン=トルコ風になっていました

音楽室には真っ白な本体に金泥で装飾されたベヒシュタイン(独の代表的なピアノメーカー)のグランドピアノが置かれ、ここはモルトケの家族(妹や兄弟、甥に姪たち)が毎晩のように集まり、賛美歌や民謡などが披露されました

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特に総長附副官で甥っ子のヘンリー・ブルトは歌の教師を呼んで本格的に歌唱を習い、彼の歌はモルトケや家族を大いに楽しませたと伝わります

同時にこの音楽教師フリードリヒ・ドレクスラーはモルトケ家の大切な友人となり、彼の残した手記は普仏戦後のモルトケのプライベートを窺い知る貴重な資料ともなっています

 長い時間を掛けて(1887年まで)少しずつ改装されていったこの「モルトケ区画」について、モルトケ自身は次のような言葉を残しました

「邸宅の調度品は少しずつ整って行き、時間もまたゆっくりと進んでいる

ここのバルコニーはとても美しく仕上げられており、緑豊かなティーアガルテンの風景はまた格別に見える」 大好きな葉巻をくゆらせながらバルコニーで平和なベルリンの街並みを眺める老参謀総長の姿が浮かんでくるようです

「赤小屋」(1872年)☆参謀本部の権限拡大 前述通り普参謀本部は独帝国の成立により軍部だけでなく帝国中枢でも絶大な権力を行使する機関と認められましたが、モルトケが参謀総長であった時代(1888年まで)、参謀本部は遂に直属の実働部隊を持つことがなく、直接軍部に命令を下す権限も与えられませんでした

 参謀本部の作戦や計画は相変らず戦時にだけ置かれる大本営を通して実行されるか、平時においては皇帝勅命や陸軍命令・通達として下達されました

このため、自ずと組織の改革を行うことが先行します

 参謀本部の組織改革は普仏戦争における様々な反省から急速に進み、目立つ改革としては、それまで動員と実戦前の部隊展開を担当していた「本部第2課(ドイツ課)」と「鉄道課」が一つの「部」として統括部長の下に統合され、「地図・測量課」の権限が強化されて他の部署にも分散していた測量や地誌などの情報収集が「陸地測量部長」の指揮下に統一されました

また、人事を主に扱う部門として総務課から独立した「中央課」が創設され、これは陸軍大学と共に参謀総長直属とされます

こうして「いざ戦争」となった時に素早く対応するための組織改革が進み、それまで地域ごとに任務を振り分けていたため分担範囲が輻輳していた各課は三人の「部長」(動員・鉄道部長、陸地測量部長、総務・総長直属機関部長)によって統括指揮され、縦割りの弊害を極力排除しようと試みたのでした